オーロビルの街でアメリカンツールを見る。

〜工具は人と人をも結び付けてくれる〜
今年はアメリカで工具の取材をしよう!そう決めた一番の大きな理由は、あるひとつの情報を入手したからでした。それは、「北カリフォルニアにあるオーロビルという小さな街に、スミソニアン博物館からも高く評価される、スゴイ工具博物館がある」という情報。
WEBサイトで検索するとたしかに興味深い博物館。以前、ドイツで行った博物館ともかなり違う、アメリカの工具の歴史をカラダ全部に浴びられそうな、そんな予感がします。 そこで早速、博物館の館長のバッド・ボルトさんとコンタクトをとりました。すると、日本からの見も知らぬ遠い僕たちの取材依頼に、実に丁寧で親切な返事が届き、通常は休館日である月曜日の取材を歓迎してくれるどころか、私たちが行きたかった、工具を使うさまざまな現場も紹介しましょうというのです!これは、絶対に行こう!と、いうことで、今回のアメリカ工具探訪放浪の旅の締めくくりは、今まで聞いたこともない「オーロビル」という街に工具を求めて行くことに決めました。
text:高野倉匡人(ファクトリーギア代表)

一泊二日の強行スケジュール

今回、オーロビルでの取材は、前述の工具博物館「ボルト・アンティーク・ツールミュージアム」そして博物館の館長バッドさんから紹介してもらう「自動車整備工場」「バイクショップ」「街のパーツ&工具屋さん」の合計4ヶ所。これを一泊二日で取材しようというものです。普通であればそんなタイトなスケジュールではないのですが、なにしろスミソニアン博物館もびっくりの工具博物館とあらば、もしかすると丸一日張り付いても見足りないかもしれない。そんな思いもあって、とにかく早朝に出発してたっぷり時間をとれるように、ということにしました。

いざオーロビルへ

ホテルをチェックアウトしたのが朝5時。まだ日も明けぬ闇夜の中をロングビーチ空港にクルマで出発しました。オーロビルの街まで約100キロの位置にあるサクラメント空港に向けて飛行機が飛び立つのは朝7時。ほぼ予定通りの時刻に機内に案内されたのですが、早朝の海沿いという立地条件が影響したのか、空港を包み込んだ濃霧に行く手を遮られ、飛行機はなかなか動き出しませんでした。約1時間後にようやく飛び立った飛行機は、キレイなカリフォルニアのビーチラインにお別れすると、機内で待った時間とほぼ同じ1時間後にサクラメント空港に到着。ここからレンタカーを借り、あらかじめカーナビにセットしていた「ボルト・アンティーク・ツールミュージアム」を目指す。ナビが示した空港からの距離は92.5km。サクラメントから北に向かい、約1時間半で到着する予定です。

平坦な大地を走るまっすぐな道を1時間以上、ひたすら走り続けるとようやく「オーロビル」の標識が見えてきました。街中に入るときれいな街路樹がお出迎え。11月もはや中旬になろうという頃。そう、季節はもう秋。日本でいうところの紅葉を、英語では「オータム・リーブス」というそうです。その「オータム・リーブス」で色づくオーロビルの街は、クルマが走るよりも、馬車が走るほうがお似合いなのではないかと思うくらい 広くはない道に、昔ながらの商店が立ち並んでいます。幼い頃夢中で見た、テレビドラマ「大草原の小さな家」の街が現代風になれば、きっとこうなるのではないかと思うような、コンパクトでキュートな街。そんな街の一角に今回の目的地「ボルト・アンティーク・ツールミュージアム」はありました。

52年間で集めた工具9000アイテム

博物館に到着すると、館長のバッド・ボルトさんと奥様のライラさん、そして地元のボランティアスタッフのみなさんが我々を温かく歓迎してくれました。エントランスの壁面には、歴史を感じさせる古いたくさんの工具が並んでいて、館内に足を踏み入れると、想像していたよりもずっと広いスペースに膨大な数の工具がカテゴリー別に分類され、きれいにディスプレイされています。聞くと、館内に展示されている工具は、アメリカ国内外約1500のブランドのものが、約9000アイテムもあるのだそうです。

写真左:Tレンチに空転するスリーブを付けた早回しの元祖。
写真中央:おそらく80年以上前のユニバーサルジョイント。ネプロスと同じグランドクロス構造を既に採用していた。
写真右:今も人気のスイベルラチェットの原型。昔の人は凄い。

これら膨大な工具は館長のバッドさんと奥さんのライラさんが52年間に渡り全米を歩き収集したものなのだそうです。日本の常識から考えれば、これほどまでの古い工具を集めるとなると、とてつもなく大変なことのように感じますが、アメリカではスワップミート(日本でいうフリーマーケット)のような部品交換会があちこちで頻繁に開催されているだけでなく、個人の家の前などで行われているガレージセール 、農場などが行うファーム・オークション、誰かが亡くなったときに遺品を処分するステイツセールなど、古い工具を手に入れる手段は少なくはないそうです。

写真左:1900年頃のLOWELLのラチェットレンチ。
中央・右:1928年のスナップオン製ツールボックス。この上開きボックスのデザインも、当時スナップオンがパテントをとっていたものであることが刻印からわかります。

さらに博物館が出来てからは、その存在を知ってたくさんの人が工具を寄贈してくれたりするようになり、以前に比べると工具の収集はずっとしやすくなっているとのことでしたが、それでもやはりこれだけの工具を収集するには相当な忍耐と努力が必要です。大変な苦労があったのではないですか?とバッドさんに尋ねると、「1957年からコレクションを始めてもう52年になりますが、工具のコレクションは今もまだまだエキサイティングなことばかりですよ。毎日まるでクリスマスのようにウキウキした気分で過ごしていますね。工具にはまだまだたくさんの発見があるし、色々な出会いもある。現に今日、こうしてあなたたちと会うことだって、とても素敵なことですよね」

その言葉を裏付けるように、ちょっと壁に目を向けただけでも、興味深い膨大な種類の工具がディスプレイされ 、多くの工具がしっかりと調査、分類され解説が加えられています。驚くほど的確で、 工具への愛着たっぷりに私たちを引き込むエピソードの数々が紹介されている館内のすばらしい展示内容は、館長のバッドさんがこの博物館を作ったルーツにあるそうです。

工具の魅力を多くの人に伝えたい

写真左:1952年にバッドさんがスナップオンのディーラーとして仕事に就いた最初の日の写真。
写真右:
「工具が産業を作り、産業がアメリカを作った」というメッセージボード。博物館設立の理念のひとつ。

バッドさんは1927年生まれ。1952年から1979年まで、スナップオン、コーンウェル、マックツールというアメリカを代表する工具メーカーで仕事をしてきた工具のプロ中のプロ。バッドさんが働いてきた27年間は、アメリカのクルマ社会がとても元気で、その元気がそのまま工具業界にも反映されていた、とても輝かしい時代だったといえます。そんな成長著しい工具業界でも、バッドさんは決して浮かれることなく誠実な営業を心がけ、スナップオンのバンディーラーとして着実に成果を上げていき、そして、仕事を始めてわずか 4年でソルトレイクシティーのブランチマネージャーとなり、子供たちに工具について語る講師の仕事もするようになっていったそうです。

バッドさんは「工具が人類にどれだけ貢献したのか?」を子供たちに語るうちに、世界中のいかなるところでも使われ、そして数多くの産業が育 つために欠かせない存在である工具の魅力を、自分自身が再認識するように なり、この人類にとって、なくてはならない存在の工具のことをもっともっと知りたい。そしてその魅力を多くの人に伝えたい。そんな思いからバッドさんの工具のコレクションは始まったのだそうです。

ガスラインプライヤーの展示の中にネジザウルスを発見!形は勿論、溝の切り方まで非常によく似ています。
この博物館が素晴らしいのは、膨大な工具が集められているというハード面だけではありません。なによりも、バッドさんがただのコレクターとして工具を収集してきたのではなく、工具を自分の生きる糧として、ビジネスとして常に真剣に関わってきたバックボーンがあり、その日々の仕事から集められた生々しい情報や物語が、展示されている工具のなかに活かされている、という背景にこそあります。だからこの博物館からは、その時々のアメリカのツールマーケットの移り変わりの息づかいさえも聞こえてくるリアリティがあるのです。工具のヒストリーを語るバッドさんは、まわりで聞く人々を一緒にタイムスリップさせてしまうほど、鮮やかな記憶と確かな知識で、私たちを魅了してくれました。

良い工具に対する思いは世界共通

まさに20世紀のアメリカ工具の生き字引ともいえるバッドさんの名字が、「ボルト」だというのも、神様がこの館長という仕事を彼に天職として与えた証なのかもしれません。そんなバッドさんから聞く興味深い工具のお話と、たくさんの工具に囲まれた博物館を見まわるだけで、時間はあっという間に過ぎてしまい、1日目の取材が終わりました。

翌日、私たちは朝からバッドさんが紹介をしてくれたオーロビルの街のなかで工具を使う「自動車整備工場」「バイクショップ」「街のパーツ&工具屋さん」の三つの現場を回らせてもらいました。21世紀の現在の全くリアルなアメリカの工具を使う現場は、バッドさんが工具を売っていた今から30年以上前とは随分と変わっているかもしれません。でも、その頃と同じように自分たちの仕事を助ける良い工具を信頼し、大切にする心優しい人たちがいました。「工具が好きだ」。そんなシンプルな理由で多くを語れる人が、アメリカのこんな小さな街にもたくさんいます。日々、汗を流し油にまみれて働く人たちは、自分の肉体の一部となって自分をサポートしてくれる「良い工具」の魅力を饒舌に語ることは余り得意ではないけれど、「良い工具」に対する思いは世界共通なのです。

現場の取材を終えた私がお昼に案内されたレストランでは、なんとオーロビル市の女性市長であるシャロンさんとのランチが用意されていました。食事を終えた私は、シャロン市長の運転するピックアップトラックで博物館に戻り、またバッドさんの取材と工具の撮影を再開しました。すると続々と博物館に人が入ってきます。バッドさんの奥さんのライラさんがスナックとフルーツポンチをテーブルに用意し、気がつくと30人近くの人々が博物館に集まりだしました。状況がよく把握できない私に、次から次へと色々な人を紹介され、さらに地元の新聞記者からのインタビューまでが始まりました。街に住む日系3世という女性からはプレゼントを手渡され、気がつくと博物館はパーティー会場になっていました。

たしかに、「たかが工具」なのです。でも、その「たかが工具」の博物館が、日本人の私とオーロビルの人を結び付けてくれました。工具に魅力があるから博物館が出来たのであり、工具に魅力があるから僕は太平洋を渡って遠くこの小さな街オーロビルに来た。その突然始まったパーティーはまぎれもなく「工具」が縁となって開かれたものでした。

記念撮影が終わり、なんとなくはじまったパーティーがお開きになり、いよいよ空港に向かおうとする私の腕をとってバッドさんが言いました。

「アナタは本当に工具が好きなんですねえ。どうですか、あなたもこのオーロビルに家族を連れて引っ越してきませんか?そしてこの博物館で働いたらどうですか?」

冗談なのかホンキなのか判らないこの問いかけに、私はかなり心をぐらつかせながらもこう答えました。「こんな博物館が日本でも出来る日が来るまで、私はもう少し工具の魅力を伝える仕事を日本で頑張ります!」。

あと何年たったら、私は日本のバッドさんになれるのだろう――。

※この特集は高野倉匡人「工具の本2010」の掲載記事をWEB用に再構成したものです。